5月16日の午後3時
ポルトガルから日本旅行に来られたご夫婦と浅草雷門前で待ち合わせて、夕方までの時間を一緒に過ごしました。
ご主人はイタリアの方で、ご夫人はポルトガルのオリーブ農園でお仕事をされている方です。
都内で数日間の滞在のあと、鎌倉や大阪などへ立ち寄りつつ、オリーブ産地で有名な小豆島への視察を予定されています。ご主人のパオロさんにとっては37年ぶりの来日なのだそうです。小豆島への道すがら、ご友人との再会も楽しみにしていらっしゃる様子でした。
この日記を書いているのは6月の2日で、まもなくお二人の帰国の日となるはずです。どのような心持でいらっしゃることでしょう。
お別れ際に頂戴したオリーブオイルを、朝食のサラダにかけていただいています。

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私たちの待ち合わせ場所となった雷門周辺の混雑には、パオロさんは「まるでヴェネツィアみたいだ」とおっしゃいます。たしかにオーバーツーリズムで有名なかの地を思い起こさせるような光景で、僕もここまでとは思いませんでした。共通の友人を通して事前にメールのやり取りはしていたものの、初対面だったので、自分の着ている洋服の色を追伸したりもしました。
ここから避難するように銀座線に乗り込んで、散策の候補のひとつだった根津美術館へ。ところがなんと、展示替えで休館中です。
「君のせいじゃないよ」。そう声をかけていただきましたが、このことで、自分がまったく冷静な状態ではないことを思い知りました。仮に入場できていたとしても、閉館時間が迫ってゆっくり鑑賞することは出来なかったはずです。
片言のイタリア語で話をしていると、日本語もカタコトになっていきます。そこそこには利用しているはずの地下鉄の乗換えさえもがおぼつかなくなっていて、方向感覚を失っています。浅草駅から表参道駅までの所要時間を分かっていても、駅の改札を抜けてから美術館まで何分歩くことになるのか。そんなことを考えるのも抜けてしまっていて、自分もすっかりと観光客のひとりになったようでした。
ご夫人のアナさんが「シャンゼリゼ通りみたい…」と、たしかにそうだな…と思いながら表参道をすこし歩いてから、銀座線に戻ってお二人の宿泊先の浅草橋駅に向かいました。地下鉄の中、パオロさんに37年前と現在の東京の印象を尋ねると「みんなスマホを見ているね。まえはみんな寝ていたよ。」(そういう自分も浅草橋駅付近のお食事処を必死に検索している)。
愛煙家のパオロさんには、ちょっと息苦しい東京観光だったかもしれません。
「街じゅうが禁煙なのを知ってたら日本には来なかったよ…」、交差点に設置された喫煙スペースについては「(喫煙者の)刑務所だ」、「37年前には電車の中でも煙草が吸えたのに」。
ユーモアにあふれる最後の名言は「今度こちらに来たときは君が払うんだよ」。これは食事の会計でご馳走になってしまった時にいただいた言葉です。
JR浅草橋駅の近くに喫煙可能な居酒屋をみつけて、夕食をご一緒しました。ご夫人のアナさんは、日本の食事の席でのマナーについてとても詳しい方でした。そのほかにも、陶器や金継ぎなどにも興味をもっていらしていて、陶芸をやっているご家族(娘さん…だったかしら)からは陶芸用品の買い物の頼まれごとがあるご様子でした。
娘さんだったか、妹さんだったのか…。そのくらいもうまく聞き分けられないのが僕の語学力の程度です。
日本酒がすすんで、パオロさんが谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』にふれて語ってくださっています。
居酒屋の店内の灯りにも眼を向けながら、光と陰について、機微に触れることばを語ってくださっていたはずです。パオロさんはきっと、僕が話の全てを理解できていないだろうことも判っています。
お客がだんだん増えてきて店内がにぎやかになる中で、僕は集中してことばを聴いて、なにかが掴めたら頷いて合図しました。パオロさんの身振りや視線、言葉と言葉の間、自分が聞き取れた単語や動詞の変化、その前後に考えられる文脈を必死で想像しながら聴きました。